吃音者は当たり前だが、基本的に人前で話したくはない。
できるならば話したくないし、時に仲間がいる時は仲間に、ファミレスなどでメニューを指で指すことができれば指で物事を解決する人種だ。
とはいえ、いくら避けようと思っても直接話すのを免れようがない場面が時折存在する。
その中でも最大級に緊張するし、失敗も出来ないのが就職面接だ。
吃音者なんて受け入れてくれる会社はあるのかどうか疑心暗鬼ではあったものの、とりあえずブラブラしているわけにもいかずに僕も就職面接を受けることになる。
9月に差し掛かって始めて受けた面接は土木の会社
周りの同級生たちは続々と内定をもらっていて、時はもう9月にさしかかろうとしていた。
それまでに就職説明会に8回、就職試験まで行ったのは5社。その中で面接まで進んだのはまだ1社もなかった。
ようやく面接まで行ったのが、後に就職することになる土木の会社だ。
そう、僕は機械工学科だったのだが、何を血迷ったか単なるギャグか、土木の会社を1社だけ受験してしまったのである。
あれは1995年の夏。
湘南と呼ばれる一体のある駅で僕は下車した。
まだスーツを着ていると汗だくになってしまう残暑の厳しい夏だった。
いざ鎌倉並みの覚悟で向かった就職面接
小さい会社なので、特に筆記と面接とが別日程で実施されるわけではなかった。
というか筆記試験は事実上適性検査のようなものだけで、学力を計測するようなものではなかったのを今でも覚えている。
90分ほどの適性検査が終わったあと、少しぽっちゃりしたお姉さんが冷たい麦茶を持ってきてくれた。
適性検査はパーテーションで区切られただけの応接スペース。
そこで麦茶を飲みながら面接を待つ。
ただでさえ落ち着かない上に、僕は吃音者。
この後控える社長面接ではどんなことになってしまうのだろう?
頭のなかには不安しか残っていなかった。
10分位経ったであろうか?
そんなことを思っていると総務課のM部長からお声がかかった。
そのM部長に連れられて、2階にある社長室へ入る。
いよいよ最初で最後の就職面接である。
たったひとつの気になる質問
あっけない出来事だった。
時間にして15分くらいだったと思う。
M部長も立会いで社長から幾つかの質問を受けた。
どれも当たり障りのない質問だ。
ただ一つだけ気になる質問があった。
それは
社長:「結城くんは当社が土木の会社だということを知っているかね?」
キターーーッ
一応予測はしていた質問だったが、ストレートに来られると少しビビる。
少しだけ困った質問は僕を非常に不安にさせたまま面接を終えた。
吃音のクセは所々で出たが、どれも致命的なものではなかったと思う。
最悪でも3D(3回どもる)止まりで、その日は狂乱的にどもることはなかった。
終了後、僕はココロの中でいろいろなシュミレーションをした。
なにせ始めて受けた就職面接である。
まあ、機械工学科なのに土木の会社を受けるのはおかしいよな。
そんなことを思いながら、M部長に見送られる直前・・・
思いもかけない言葉を授かったのである。
「うちのほうは内定出しますので」
満面の笑みでのM部長からのひと言。
「それでは1週間位のうちに一度ご連絡をください。うちのほうは内定出しますので」
え?受かっちゃったの???
だって、ほぼほぼ面接が終了してから社長とM部長は話してないよね?
ってことは、適性検査にかかわらず、面接でよっぽど変な人間でない限り内定は出すことになっていたんだと思う。
今考えると緊張して損をしたと思うけど、当時の僕は全くそんなことを考える余地はなく。。。
帰りの駅までの道のりは実に清々しいものだった。
シネマパークと言われる娯楽施設を横目に、小さくガッツポーズをしている自分がいた。
その面接の3日後、他の会社からも面接を受けさせてくれる旨の連絡が来た。
おそらくあとに受けるはずだった会社の面接の結果が出るまで、土木の会社に待ってもらうことは可能だったと思う。
もしくは少しズルい手だが、土木の会社には就職を希望する旨を伝えておいて、あとでやっぱり辞めますということも不可能ではなかった。
でも、結局2社目の面接を受けることはなかった。
こんな吃音者の僕でも面接の当日に内定を出しくれた会社に僕は敬意を払い、入社することを決意したのだ。
最初にして最後の就職面接には少しばかり拍子抜けしたが、あの成功体験が、吃音克服を40歳になるまで先延ばしにした理由の一つなのかもしれない。
もちろん、ほぼ吃音克服を果たした今は、あの当時の必死さを懐かしむのみである。