僕が最初にいた会社は従業員が200名弱と、大手の企業からしたら小さな建設会社だった。
親父が勤めていた会社が上場企業で従業員も数千人レベルの会社だったからか、僕は就職した会社で偉くなるとかそういうことに一切興味がなかった。
そればかりか新入社員のころから仕事の内容もままならぬまま現場に一人で出されて、いつも逃げたいと思う気持ちと葛藤していたのだ。
そんな若き頃、サブコンの現場監督生活だったが、それでもある現場で社内表彰を受けることになった。
会社としては2例目となる難しい工法で高層ホテル建設の基礎部分工事の責任者をやっていたのだが、約2年半の工期を無事故無災害で終わらせることが出来たからだ。
ちなみにその工事本体で辛かった経験は以前書いた回顧録がある。
そんな思いをしてまで完成した工事なので、社内表彰で自分が認められるというのは本来なら光栄な事だ。
でも、僕は真剣に表彰を拒否することを考えた。
それは、授与される時にひと言挨拶をしなければならないからである。
決してオーバーとは思わない表彰拒否を検討した理由
普通の人が考えれば、挨拶って言ったってひとことお礼を言って、現場の概要、そして職人の数も多く、かつダンプトラックや重機が入り乱れて稼働しているという難しい環境で、いかにして無事故無災害で切り抜けることが出来たのか?
その要点を発表するだけのことなのに、表彰を拒否するなんてそんなオーバーな・・・
そう思うかもしれない。
ところが吃音者の思考は違う。
とにかくどもりが出る、その不安だけが日々の安定した生活を支配してしまうのだ。
とはいえ拒否しようと思ったことには、、実はもう一つ理由があった。
社内表彰を拒否しようと考えたもう一つの理由
推薦してくれたのはY営業所長という直属の上司だった。
この工事が始まったのが僕が25歳の時。
そして工事が終了する2年半の間、今までの人生の中でも色々な意味で充実した人生を送ることになる。
僕は25歳の春、学生の頃から5年間付き合ってきた彼女に引導を渡されていた。
仕事は週休1日で、その1日を義務のような彼女とのデートに使うことに疲れていたのがきっと伝わってしまったんだと思う。
恥ずかしい話だが、そんな感じだったので他に男を作ってしまった。
そのことを告白されて別れたのが25歳の時の春。
別れてみるととてもショックだったのだ。
数ヶ月が過ぎ、そんな僕に入社以来のビッグプロジェクトが舞い込んできた。
それが今回の現場。
横浜は桜木町駅前にある高層ホテルの基礎掘削工事の責任者。
僕は会社を代表してその工事に関わった。
ところがそんな大規模かつ難工事なので25歳の小僧っ子がうまくいくわけがない。
工事が始まって半年が過ぎた頃、落ち込みもピークに達してY所長に退職を申し出た。
細かい経緯は省くけど、Y所長や職場の先輩に励まされてなんとか、その工事を、しかも無事故無災害で終わらせることができたのだ。
でも、それって自分の実力じゃない。
吃音症の挨拶もそうだけど、そんなフェアじゃない賞はいらないと純粋に思い、社内表彰を辞退する旨をY所長に伝えた。
でもその時Y所長が悲しそうな顔をしたのだ。
いかに自分のことだけしか考えていなかったか
Y所長:「そんなことを言うなよ。確かに周りの人間に助けてもらったのはそうだろう。でもこの業界一人ではなんにもできないんだ。結城君だけじゃないよ。俺がせっかく推薦したんだから、俺の顔を立てると思って受賞してくれないか?」
その時僕は思った。
いかに自分のことだけしか考えていないかを。。。
推薦してくれたY所長の顔を潰してしまったり、僕を励ましてくれた営業所の先輩たちにとっても名誉な賞なのだということを全く考えていなかった自分。
僕にとっては挨拶で吃音に怯えることは確かに苦痛だ。
しかし、それを乗り越えてでも自分を応援してくれ、励ましてくれた上司や先輩がたに報いなければならない。
そう思った僕は受賞することを決めた。
オリンピック選手のあの言葉の意味がわかった瞬間
よくオリンピック選手など、トップになった人が口にする言葉。
「応援してくださったみなさんのお陰です」
僕は、高校時代に父を亡くし、それまでほとんど精神的に人に頼ることはしてきたことがなかった。
いつでも信じられるのは自分。
結果がでてもでなくても自分の責任。
そう思って生きてきた。
でも、社内表彰を受けた時だけは違った。
従業員200名の他、主要クライアントや協力業者を含めて300有余名の前で心の底から言えたこと。
僕:「元請けの職員のみなさま、実際に安全作業で無事故無災害を達成してくれた協力業者のみなさま、そしてもちろん社内の先輩方、今回、このみなとみらい21-26街区工事を無事故無災害で終了してこれたのは本当に皆様方のお陰です。心より感謝しております」
そんなオリンピックで金メダルをとった時の感想のような言葉。
その意味を初めてわかった28歳の社内表彰授与式だった。
逃げなかった人生。
確かに今こうして吃音も克服して東南アジアに若いカノジョも出来て充実した人生を歩み始めたが、39歳まで吃音症という無類のハンディキャップを抱えながらも道を外さず、ぐれずにそれなりの人生を生きてこられたのは、この社内表彰の経験が自尊心を高めてくれたからなのかもしれない。
他にも逃げたら後悔することを教えてくれた先輩や上司が僕には何人かいる。
それらすべての人に向けて改めて「ありがとう」を伝えたい。
もちろん吃音克服のきっかけとなった方法との出会いにも(笑)