週末の仕事を終え、僕は会社の先輩と飲みに出かけた。
地元の駅前にある、ちょっと気の利いた食べ物を出す居酒屋。
個人経営ではないが、品数が多いわりには個性があり安心して通える居酒屋だ。
そこで、吃音者として生涯忘れることのない屈辱を味わうことになった。
いやこの場合、吃音者としてというよりは、一個の男性としての屈辱を味わったというべきかもしれない。
屈辱のプロローグ
吃音者である限り、言葉を発することはいつの時もストレスになる。
40歳になってから吃音を克服してからは、自分が吃音者であるということを必要以上に意識することはなくなったが、思春期であり、しかもどもりが直接の原因ではないにせよ、前年に約5年間付き合ってた彼女にフラレていた身としてはメンタル的に相当堪えた事件だった。
どんな事件かって?
口喧嘩。そうただの口喧嘩である。
こちらは26歳。相手はおそらく20代前半の小僧。特にカワイクはない彼女を連れていた。
奴らはすでに飲み始めていた。
「何、チラチラ見てんだよ」
最初は奴らもおとなしく飲んでいた。
もちろん、僕と先輩も時折(半分愚痴の?)仕事の会話なども織り交ぜながら、平穏と飲んでいたのである。
ところがあるときから奴が絡んできた。
奴:「何さっきからチラチラ見てんだよ」
こちらとしては見ているつもりはなかったので、最初は紳士的に
僕:「いや特に見てないけど」
と受け応えた。
しかし、奴は「見てるじゃねーかよ」と譲らない。
数度の見てる、見てないの不毛なやり取りを繰り返しているうちに、吃音者としては慣れているからかわれかたが始まった。
我を失わせた屈辱のひと言
奴:「み、み、み、み、み、じゃねーよ、バカ、ははは」
吃音者ならばわかると思うが、口喧嘩のような少し興奮した状況になると、どもりグセがひどくなる傾向にある。
そこを奴は心の動揺とみて、ついてきたのである。
まあ、確かに興奮していないわけではなかった。だって普通に飲んでいたら難癖付けられたのだから・・・
でも吃音者にとっては、そんな口撃は特になんとも思わない(少なくとも僕は)
逆に、ツッコミや反撃の速さでは勝てないので、物事を理論的に考え反論するスキルを持っているとさえ思う。
見てる、見てないのくだらない議論でも、僕のツッコミは冴えていた。
僕:「っていうかさ、なんで俺がお前を見る必要があるの?」
奴:「しらねえよ。だから何見てんだって言ってんじゃねえかよ」
僕:「だから見てないから。君の気のせい。おしまい」
これで幕引きを図ろうとした瞬間、生涯忘れようのない屈辱が奴の口から発せられた。
奴:「逃げんのかよ、ハゲ。アホ。だからモテねえんだよ。可哀想にね~」
我を失った。
薄毛と書いて・・
ハゲと読む。
そう、僕の家系は3代に渡る薄毛。(祖父よりも前はわからないので実際はもっとかも)
僕も26歳にして、おでこからの伐採ラインともいうべき不毛地帯が後頭部へと伸び始めてきた頃だった。
今であれば、ここまでは怒らなかっただろう。もちろんカチンとくる言葉ではあるが、屈辱とまで感じることはないと思う。
しかしその時は、まだ自分が「ハゲ」であるかどうか葛藤していた時期だった。
(もしかしたらハゲを免れるのではないか?)
そんな淡い期待を抱いていた時期だったのだ。
そこを週末の少なくない駅前の居酒屋という大衆の面前で突かれたわけだから激情してしまった。
僕は、店の外に出ることを奴に促した。
いわゆる「表にでろ!!」ってやつだ。
彼女がいたので、少しは自重したのだろうか、2~3回は僕の挑発に乗ってこなかった。
しかし僕の怒りは収まらない。
何度目かの誘いで彼の腰が浮きかかった時、ゲームオーバーとなった。
先輩が止めてくれたのだ。
先輩:「結城出よう。いくぞ、来い」
自制の精神
実は先輩は新潟出身で若いころは高校も中退したやさぐれものだった。
しかし、その先輩が止めたのだ。
そこで、社会人たるもののブレーキが効いた。
ようやく目が覚めた。
もしあの時、先輩がしっかりと止めてくれなかったらもしかしたら前科者になっていたかもしれない。
もしくは、逆に僕がボコボコにされていた可能性もないわけではない。
まあ、大人数での喧嘩ではないので、警察を呼ばれて終わっていただろう。
そうなったら自分だけでなく会社にも迷惑をかけることになった。
素直に止めてくれた先輩には感謝したい。
あの頃の屈辱をこんな風に語れることが出来る日が来るなんて、想像もしていなかった。
一時期は吃音というものに一生付き合っていくんだと思っていたが、一応、克服と自分が思えるまでになって心底良かったと思う。
おなしな輩に居酒屋で遭遇したのもタイミングなら、先輩に止めてもらったのもタイミング。
そしてとりあえずは吃音を克服したといえるまでになった>この教材<に出会えたのもタイミング。
これからもまだ短くない人生、タイミングは大切にしたい。